2009/02/23
自我と自己
自然体でいこうと言っている時点で自然体ではない(笑)
決して理想の政権は急がず、言いたいことを堪えつつ、メモしながら、じっくりと改革していきたい。
さて、今週の職業会計人のカリスマ岩永先生による「考える言葉」のテーマは、自我と自己。
専門知識は仕事の上で欠かせないが、経営者(役員を目指す者も含む)にとって、「人間学」は最も大事。
ここらへんを面倒くさいと割愛する人に、大変遺憾ではあるが、経営は委ねられない。
自我と自己(H21.2.23)
「人間は、“自我”と“自己”という二つの人格をもって、存在し、生きている」(経営人間学講座入門篇)という。その入門篇(長崎)に沿って、“自我”と“自己”について考えてみたいと思う。
“自我”と“自己”の成立構造については、氷山になぞらえて説明されることが多いが、イメージしてもらいたい。
つまり、「“自我”とは、水面の上に飛び出しているところであり、自分で意識できる自分である。そして、“自己”とは、水面の下に隠れていて、自分で意識できないので、無意識の世界の存在である」という。そして、実は、「無意識の“自己”の世界が、意識の“自我”の世界を支えている」のだという。
これは示唆に富んだ話であるが、全体と部分の関係性に置き換えて考えると分かりやすい。つまり、全体が“自己”であり、部分が”自我“といえる。故に、“自我”は“自己”の一部なのだ。
私たちの多くの日常性は、“自我”の人格で生きている。つまり、ほんの部分に過ぎない自分を全人格と思い込んでいるとことに、人生の様々な不都合の原因をつくっているのだ。
「あなたと私は違う!」といって、相手と自分を分離して考えるのは“自我”人格の最たる特徴である。つまり、相手と自分との関係性を一切無視してしまうので、どうしても「部分(=自我)最適」に走ってしまう。「利己的・対立的・打算的・保身的」な思考に走る“自我”人格の特徴は、まさに部分に過ぎない自分を自分の全てだと錯覚してしまったところに起因する問題だといえよう。
では、全体である“自己”とは何か?これは少し、難しい。私たち一人ひとりの中に“自己”が存在しているのであるが、その“自己”の世界には地球上に住んでいる全ての人々の人格が含まれているという。それだけではなく、すでに死んでしまった過去の地球上の歴史に出てきた全ての人格も含まれているというから、自己の存在は宇宙そのものといえよう。
このような“自己”の人格は、「出逢った相手は、自分である」という自他非分離の思考であり、つねに全体と部分の関係性で物事を捉えようとするので、自他との共存性を大切にし、「全体(=自己)最適」の思考で物事を解決していくのである。
21世紀の「知のモデル」といわれている複雑系の科学は、まさに、そのような統合的な“自己”の存在性を証明しようとしているという。
自己革新とは、“自我”から“自己”へ人格を変える戦いであるといえよう。
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