2014/11/15
「大名行列ルートは新幹線ルート」<271>
「大名行列ルートは新幹線ルート」<271>
(11/15)
金沢経済同友会の「ふるさと塾」は本年度、「加賀藩が残したもの」をテーマに三回の開催が予定され、第一回は表題の演題で金沢学院大教授の東四柳史明氏からの講義を10月17日に聴講した。
北陸新幹線の開通が、戦後70年、東海道新幹線開通50年後にあたる2015年、いよいよ4か月後に迫っている。
金沢~東京間が2時間28分で結ばれるが、150年前の「参勤交代」の時代は加賀~江戸を12泊13日かけていた。
慶長7年(1602)前田利長が母・芳春院(まつ)を人質としていた見舞いと家康の孫である珠姫が利常に輿入れしたお礼のために参勤し、その翌年から大名の江戸参勤が広く行われるようになり、1635年、「武家諸法度」の制度化につながった。
藩主、前田光高は寛永20年(1643年)長男の犬千代(のちの綱紀)が誕生するが、この報せを聞いた直後の参勤で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ。
四月に江戸に向かい、翌年六月に帰国するのが年中行事だった。
距離にして480キロ(120里)を北國下街道~中山道を181回、北國上街道~美濃路・東海道を5回辿っての大名行列である。
そのルートはおおむね新幹線ルートに沿っている。
「参勤交代」は加賀藩3代藩主・前田利常の時代の寛永12年(1635年)に徳川幕府が定めた「武家諸法度」により始まり、奥方を江戸に置かなくても良くなった文久2年(1862年)までの230年程続いた。
「参勤交代」は、江戸幕府が大名統制のため、諸大名を一定期間、江戸に住まわせた制度。
原則として大名を一年交替で江戸と国もとに住まわせ、その妻子は江戸に常住させた。
これによって大名は人質のような形となり、国もとと江戸を往来する費用の負担が大きく経済力も弱められた。
参勤交代が行われた期間は、寛永16年(1639年)に4代藩主前田光高(6年間藩主)、天保2年(1645年)に5代藩主前田綱紀(78年間藩主)、続いて吉徳、宗辰、重熈、重靖、重教、治脩、斉広、13代・斉泰(1866没)の藩主が参勤交代を勤めたことになり、通算190回(参勤が93回、交代が97回)にもなる。
参勤交代には2000人~4000人の人数とお金5~7億円を要し藩の財政を圧迫した。
私が生まれた新潟県の南端で富山県との境にある「市振(いちぶり)」は親不知子不知(おやしらずこしらず)の難所の次にあり徳川幕府の関所が置かれていた場所である。
また、新潟県の宿場に「二本木」があるが、私が少年期に過ごした場所でもあり、昔、大名行列が通ったと思うと感慨ひとしおである。
写真…鞍月パーク(11/6)
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