2016/07/25
「囲碁・碁聖戦」<332>
囲碁で史上初の全七冠同時制覇を4月20日に達成した井山裕太碁聖(27)に村川大介八段(25)が挑む第41期碁聖戦の5番勝負第2局は7月18日、金沢市の北國新聞会館で行われ、150手で白番の井山碁聖が中押し勝ちして2連勝となり、名誉碁聖がかかる5連覇にあと1勝とした。
井山七冠は鋭い大局感で村川八段に地を与えながらも最後に白の大模様に入ってきた黒石の生きを許さなかった。
「肉を切らせて骨を断つ作戦でリスクが大きく、普段はあまり選択しない。決断の時でした」と左辺の攻防について振り返っている。
7月2日にザ・リッツ・カールトン大阪で開催された「井山七冠のお祝いと師匠の石井邦生九段の千勝達成祝いの会」にも参加してきたが、約500名のファンが集まり井山七冠の人気の凄さを目の当たりにした。
6月16日には「内閣総理大臣顕彰」を安倍総理から受けている。
そのお祝いの会で、「井山と石井のトークショー」が佃亜紀子五段の進行であったが、私が興味を引いたのは井山裕太七冠の話。
「プロがいくつかの選択肢からこれまでの経験で先に外している手を、私はその手が有効でないかさらに考えている」と。
前17日に金沢市内のホテルで前夜祭があり、140人の囲碁ファンのうち約30人が高校生以下だった(北國新聞)。
子供の質問に答えた井山碁聖は、5歳のときにテレビゲームの囲碁に興味を持ち自然と囲碁の世界に入ったと語った。
その前夜祭の前に北國新聞会館で「対局室検分」が行われた。
「対局室検分」とは対局前日に、対局室の様子を確認すること。
ライト、空調、備品(座布団の厚さ、座椅子、ゴミ箱、ポットなど)そして、碁盤や碁石の打ち心地を確かめる。
今回の碁聖戦では、お声がかりもあり、碁盤と碁石を私が提供することになった。
「対局者と参加棋士および主催者の事前打ち合わせ会」、「対局室検分」、「局後の打ち上げ会」にも碁盤提供者として出席にあずかる。
局後の打ち上げ会で、井山裕太棋士から4年前に指導いただいた対局の写真が載っている私の叙勲受章記念誌を進呈した。
また、石川県が45年ぶり(この碁聖戦の立会人をつとめた本田邦久九段以来)に生んだ田尻悠人四段(25)とも親しくよもやま話をさせていただいた。
碁盤と碁石は、6月1日に大阪の井上一郎製作所へ佃優子師範と訪れ、佃亜紀子五段にも立ち会っていただき購入した。
碁盤は6寸8分厚(7寸盤だと高くなるので少し低く)の追柾目。
とくに碁石が厚いのは好まない棋士がいると亜紀子五段からアドバイスがあり33号厚を選んだが気に入ってもらったようで良かった。
佃姉妹先生のご指導の支えにより検分は無事に終わった。
そのあと、碁盤裏に井山裕太七冠より揮毫をいただいた(写真)。
揮毫に使う筆と墨を準備するのに苦心した。
結局、井山七冠は数本の中から中筆を選び、墨は自宅近くの書道店で買った「木簡墨」がうまく合ってほっとする。
大盤解説会では林漢傑(りんかんけつ)七段と佃優子アマ六段が多くの囲碁ファンに5時間もの長時間、分かりやすく多岐にわたる楽しい話題で解説していただいた。
碁盤と碁石はこのタイトル戦が初使用だとご紹介いただく。
熱戦から一夜明けた19日、井山碁聖は金沢市本多町2丁目の日蓮宗「本行寺(ほんぎょうじ)」を訪れ、江戸時代前期に活躍した棋士の本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)日海上人の碑を参拝した。
算砂は七大タイトルの一つ「本因坊」の由来である本因坊家の初代家元で、加賀藩3代藩主前田利常が金沢に招いている。
本因坊算砂は(1559~1623)1578年に織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚され、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとの説がある。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ともに算砂に対し五子の手合い割であったと「坐隠談叢(ざいんだんそう)」にある。(坐隠は広辞苑で見ると囲碁の異称だと初めて知った。)
本因坊道策は算砂没後22年後に生まれ、本因坊秀策は道策没後127年後に生まれている。
辞世の句は、「碁なりせば刧(コウ)なと打ちて生くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり」
もっともであります。
井山裕太七冠は先月6月30日に本因坊戦5連覇で二十六世永世本因坊の資格を得た。
算砂没後393年、秀策没後154年に永世本因坊になった27歳の天才棋士井山裕太七冠を誇りに思うとともに日本を背負って世界で活躍して欲しいと願っている。
写真…揮毫いただいた初舞台の碁盤
素晴らしい体験ができましたね!