2017/05/15
「母・静子の父親・森田六三郎の生涯」<361>
2月頃から3か月間、家系図づくりのため情報を収集してきたが、ほぼ終わった。
直系の先祖を調べるのは簡単だが、傍系にわたると容易ではない。
掲載する氏名は120名にのぼる。
4月24日に大宮市で杉田圭三氏(税理士)から一真氏に社長引き継ぎ会が開催されたが、その席で久方ぶりに創造経営の天明茂先生(私と同い歳)に会った。
天明先生の話では、成長する会社の経営者は家系図をつくり先祖に繋がる意識が強いと。
「創造経営の行動目標」
1、両親の願いを理解し、祖先の徳を受け継ぎ、家系浄化に取り組み、生きがい・働き甲斐を創造する。
2、変化の本質を見定め次世代のために職場の目標を掲げ、その実現できる人々を育てる。
3、関与先、その取引先の困っている問題解決のために調査研究と自己啓発を行う。
4、生活・職場・地域等のボランティア活動を積極的に行う。
5、職場・家庭生活で明るく俊敏に行動する。
~先祖があって今の私がある。~
私の母・静子の結婚までの家庭環境は、実父である森田六三郎の経歴を見ると分かる。
「森田六三郎の経歴」
・明治13年7月10日(今から137年前)…能美市岩内で森田六郎右衛門・乃よ の四男として生まれる。
・明治39年6月1日…26歳で北市屋甚六・えと(白山市美川町ソ28)と養子縁組し、甚六の長女「つね」(18歳)と結婚。
・明治39年7月25日…六三郎と「つね」に長女・「静子」(私の母)が誕生。
・大正2年8月7日…静子の母・「つね」が25歳で逝去する。(六三郎33歳、静子7歳の時)
・大正3年10月28日…六三郎、北市屋甚六と養子縁組を解消。
・大正3年12月31日…34歳で本郷ヨネ(富山市、本郷弥三吉・チエの二女)と再婚。
・大正6年8月14日…37歳で離婚(倶利伽羅にて)。
・大正8年9月2日…39歳で美川町から能美郡岩内り12番地に分家。
・大正8年9月10日…能美郡山上村の神田與四兵衞・りつの三女「ヒナ」と結婚。
・大正10年3月24日…長男・「清」が倶利伽羅(河北郡津幡町)で誕生。
・昭和2年3月25日…母・静子が21歳で木村喜作(28歳)と結婚。
その間、実母「つね」とは7年、継母「ヨネ」と3年、父・六三郎とだけ2年、継母「ヒナ」と8年、ヒナの子「清」と6年の同居だった。
気苦労が多かったことだろう。
・昭和2年8月15日…二女・「康子」が高松駅長官舎(河北郡)で誕生。
六三郎は国鉄マンで私の父親・喜作と職場が一緒だったので、父母の結婚に繋がっていると思う。
・昭和21年5月14日…66歳で逝去。
(金沢市大乗寺の墓にヒナさん、清さん、養子の外司さんと眠っている。)
・その後…長男・清は2年後(昭和23年)に27歳で逝去。
妻・ヒナは32年後(昭和53年)に85歳で逝去。
長女・康子さんは健在で現在89歳。
2月6日にお見舞いに行ってきた。
私は母方の祖父母・北市屋甚六と「えと」の墓参りがこの度の目的の一つだった。
兄・昭雄は昭和48年9月に父・喜作(当時74歳)、母・静子(当時67歳)、河北郡内灘町鶴ヶ丘の菊田芳枝さん(甚六・えとの次男由太郎の子)、能美郡岩内の前川田鶴子さん(六三郎の兄・市太郎の長女で母・静子と同い年)と五人で美川町にある墓に30年ぶりにお参りに行っている。
昭和5年に北市屋由太郎さん建立の「大心海」と刻まれた墓だそうだ。
その後年に、兄がお参りに行ったが見あたらなかったとのこと。
私は今回、美川町の墓地や寺を訪ね歩いたが、やはり見当たらなかった。
北市屋の姓が男子の後継ぎが無く断絶したことが原因だ。
母・静子の生誕地を訪れて見て、言い様のない郷愁を感じた。
同時に、墓石や菩提寺の大切さも実感した。
今回の先祖探しで、「白山市成町共同墓地」に吉光の後妻・祖母「せ津」の父・中村磯右衛門の墓石を見つけ、また、「せ津」の母・「ふよ」の父・小野三郎兵衞の墓石を見つけたのは感動的だった。
祖父・吉光の先妻・「いへ」の父母・高井忠兵衛・「いさ」の墓石も白山市村井町樋爪の「村井共同墓地」で見つけた。
墓石も多く拝見したが、その形はさまざまで先祖の足跡を残すためには法名、俗名、没年月日、没年齢を刻んだら良いと思う。
「家系図づくり」の探求心に火がついたが一段落した今はほっとしている。
離れ離れになっている子孫の顔合わせも我々親の努めだろう。
先祖の記録から繋がりを実感できて有意義だった。
役所や寺院をはじめ親族の方々のご協力に感謝申し上げます。
写真…5/13に、母・静子の母方・祖父母、甚六・「えと」の次男・由太郎と「よね」さんの子供・菊田芳枝さんの墓を訪ねて河北郡内灘町墓地に。
墓石は見つからなかったが可憐な花が迎えてくれた。
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