2017/07/05
「海の百万石~銭屋五兵衛~」<366>
「銭屋五兵衛記念館」は金沢市金石本町で平成9年7月に開館している。
私の自宅から車で9分で行けるのに、7月1日に初めて訪れる。
移築された五兵衛生家の蔵も見られ、近くに「大野湊神社」もある。
「銭屋五兵衛の人物像」
銭屋五兵衛は安永2年(1773年…244年前)に加賀国宮腰(現在の金沢市金石町)に生まれる。
六代前の初代銭屋吉右衛門から両替商を営み、屋号を銭屋と称していた。
五兵衛は七代。
私の先祖の名前にも吉左衛門・忠右衛門・忠兵衛があり、五兵衛と生きた世代は同じだ。
祖父から五兵衛を名乗り、父弥吉郎(六代五兵衛)の時には金融業、醤油醸造業の傍ら一時海運業を営んでいた。
17歳で家督を継いだ五兵衛は新たに呉服、古着商、材木商、海産物、米穀問屋なども営むが北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは、50歳代後半からでその後、約20年間に江戸時代を代表する海運業者となる。
交易先は、ロシア・サハリン・朝鮮半島・イギリス商船(沖永良部島で)・ルソン・シャム・オーストラリア・北アメリカと凄い。
日本では北海道礼文島に銭屋五兵衛の碑がある。
だが、江戸時代の時であり、密貿易を加賀藩は黙許していた。
加賀藩からは銀仲棟取(ぎんずわいとうどり)問屋職、諸算用聞上役(しょさんようききあげやく)を仰せ付かり、藩の金融経済に貢献した。
晩年は河北潟干拓事業に着手するが死魚中毒事故にかこつけた加賀藩の黒羽織党と称する長連弘一派の中傷による無実の罪で嘉永5年(1852年)11月21日獄中で80歳の生涯を終えた。
その子の要蔵らも磔(はりつけ)に処せられた。
そして加賀藩は銭屋家の財産を没収し家名断絶とした。
五兵衛を支えた加賀藩重役の奥村栄美が亡くなり、幕府の鎖国に反することを恐れる勢力の台頭で運命が変わったようだ。
銭屋五兵衛が獄中で書いた直筆遺言書が記念館で見られる。
必見だ。
五兵衛が牢死した前年(1851年)にジョン万次郎がアメリカから帰国し、翌年(1853年)にペリーが来航している。
さらに1854年には開国(日米和親条約調印)になるとは……。
また、銭屋五兵衛家旧蔵仏壇も展示されている。
この仏壇は規格では最大級の物とされ、漆や蒔絵には金沢仏壇の技法が見られる。
この仏壇の扉には指物師としても活躍した大野弁吉が施した「囲碁の対局」の彫刻があり、盤上の布石まで読み取ることができる。
五兵衛が49歳(1821年)のとき3か月間かけて、信濃を通り江戸見物し東海道を経て旅した記録「東巡紀行」には途中、私の生まれた市振も記述があり嬉しかった。
また、記念館で嬉しかったのは、私一人しかいないのにビデオ放映の前に説明をしていただいた案内の方の姿勢だ。
歯切れが良く、美声で長い説明を流暢にしていただく。
ありがたかった。
やはり人に対する姿勢が感動を生む。
このブログをきっかけに「銭屋五兵衛記念館」に一人でも多く訪れていただきたいと思う。
五兵衛の生きざまを通し、人間は生きてる間は、妬み嫉みエゴの中でうごめいているのかも知れない。
歴史から学べば人生は彩られる。
写真…ギボウシ(上の花の右にトンボが止まってるの分かりますか。自宅7/2)
私も1人でのビデオ鑑賞 この記念館の姿勢に感謝
移設された本宅 波乱に満ちた幕末の日本を駆け抜けた海の豪商
8月の午後、この暑い日々のなかの 爽やかな時間に感謝して