2017/11/25
「節目のとき」<380>
11月25日、木村経営ブレーン・グループの定時総会で、私は税理士法人木村経営ブレーンの共同代表社員税理士を退任し、社員税理士に就任して常勤から半常勤になる。
木村岳二税理士が単独の代表社員となる。
木村岳二代表は平成12年11月に入社してから17年で事業承継を果たしたことになる。
私は2か月後に75歳となり後期高齢者に仲間入りする。
内閣府の「平成29年版高齢社会白書」によれば。
我が国の総人口は、平成28年10月1日現在、1億2,693万人。
65歳以上の高齢者人口は3,459万人で総人口比27.3%。
男女別にみると、男性は1,500万人、女性は1,959万人で、
性比は女性100人に対して男性は76.6人。
65~74歳(前期高齢者)は1,768万人、総人口に占める割合は13.9%。性比は100:91。
75歳以上人口(後期高齢者)は1,691万人、総人口に占める割合は13.3%。
(男性10.6%、女性15.9%)。
性比は100:63.6。
私は総人口の13.3%(後期高齢者)の層に属することになる。
石川県では平成26年10月1日現在、75歳以上は149千人(男54千人:4.7%、女95千人:8.2%)で石川県人口1,155千人の13%(後期高齢化率)にあたる。
これまでの私の節目を振り返ってみた。
昭和36年4月…白山市のニッコー(旧・日本硬質陶器)に入社(18歳)。
昭和48年12月…税理士試験に国税三法を選択して合格(30歳)。
昭和50年6月…ニッコー株式会社を退社し、白山市で自宅新築し税理士事務所開業(32歳)。
昭和53年3月…富士短期大学(現・東京富士大学)を卒業し、事務所を白山市から金沢市間明町に移す(35歳)。
昭和54年6月…北陸税理士会金沢支部幹事就任(36歳)。
昭和57年3月…TKC真正A級会計人の認定を受ける(39歳)。
昭和57年6月…株式会社木村経営ブレーンを設立し代表取締役就任(39歳)。
昭和63年9月~平成元年8月…TKC中央研修所研修委員長(45歳)。
平成元年9月~平成5年9月…TKC北陸会総務・規律委員長(46歳)。
平成3年1月…株式会社北陸医業経営コンサルタンツを設立し代表取締役就任(48歳)。
平成27年7月1日に株式会社木村経営ブレーンに吸収合併。
平成3年3月…日本医業経営コンサルタント協会の医業経営コンサルタントに認定登録(48歳)。
平成4年2月…株式会社北陸エム・アンド・エーセンターを設立し代表取締役就任(49歳)。
平成29年8月に株式会社木村事業承継ブレーンに商号変更。
平成5年6月…北陸税理士会金沢支部長(50歳)。
平成7年7月…事務所を3回移転(間明、本江、西泉)した後、金沢税務署近くの駅西新町に社屋建設(52歳)。
平成12年10月~平成26年3月…金沢大学講師、「21世紀を生きるためのキャリアプラン」を担当(57歳)。
平成13年6月~平成19年6月…北陸税理士会会長就任、6年間で218項目の改革改善を実行(58歳)。
平成13年7月~平成19年7月…日本税理士会連合会副会長就任(58歳)。
平成13年9月…自宅を白山市成町から金沢市高尾に移転。
平成16年1月~終身…大連工業大学客座教授(61歳)。
平成17年11月…藍綬褒章受章(62歳)。KKB30周年記念誌発行。
平成18年4月…北陸税理士会発足50周年の記念行事として会員80名でソウル・大連・上海を訪問。
10月に韓国・中国の税理士組織と「三税理士会共同宣言」を交わす。
北陸税理士会50周年記念誌「朋友」を発行(63歳)。
平成19年5月…ブログ「遊魚動緑」を始める。
平成19年12月~平成27年1月…国税審議会委員就任(64歳)。
平成22年4月~平成26年3月…北陸大学客員教授に、「病院経営」「医療サービス」を担当(67歳)。
平成23年3月~平成26年6月…(公社)日本医業経営コンサルタント協会会長就任(68歳)、平成24年4月に公益社団へ移行。
平成24年4月…(一社)金沢経済同友会監事就任(69歳)。
平成25年2月…株式会社木村経営ブレーンの代表取締役社長を退任し取締役会長に就任(70歳)。
木村岳二が代表取締役社長に就任。
平成25年4月…旭日小綬章受章(70歳)。KKB40周年記念誌発行。
平成26年3月…大韓民国国税庁より感謝牌で表彰される(71歳)。
平成26年10月…木村光雄税理士事務所を廃業し、税理士法人木村経営ブレーンを設立し共同代表社員となる(71歳)。
平成29年11月…税理士法人木村経営ブレーンの共同代表社員を退き社員税理士へ(74歳)。
これまで大過なくこられたのも、多くの方のご指導ご鞭撻とあたたかい支えがあったからと感謝しております。
私が税理士試験勉強のために買った額皿に描かれた「座右の銘」は…「この道より我を生かす道なし、この道を歩く(武者小路実篤)」。
今も両親の遺影とともに大切に飾ってあります。
写真…「原爆の子の像」(モデルとなった佐々木禎子さんは私と同じ昭和18年1月に生まれ12歳で原爆白血病で亡くなった)の近くの花壇にピースという薔薇の花が咲いていた。(11/17、第21回日本医業経営コンサルタント学会広島大会の際に訪れる)。
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