2018/08/17
「私のふるさと探訪」<406>
8月9日~10日にかけて、私が小学校1年生~5年生に過ごした中郷小学校(新潟県二本木駅)と生まれた地の新潟県市振駅を訪ねた。
なぜ駅かというと父・喜作が国鉄マンで新潟県西南部を中心に勤務していたことによる。
父(昭和53年、80歳で永眠)は昭和15年3月~昭和19年3月までの4年間、市振駅長を勤めた。
さらに、関山駅長、黒井駅長を経て、第15代二本木駅長として昭和23年10月~昭和29年2月の約5年余りを勤め定年退職し石川県白山市に帰郷した。
その間、私は昭和18年1月に市振駅で生まれ、昭和24月4月~昭和29年3月の小学生5年間を二本木駅で暮らした。
平成16年に二本木を訪れたが、14年後の今回、過疎化がさらにすすんでいるのを感じた。
二本木駅はスイッチバックで有名。
二本木周辺が急勾配のため、列車がZ字形に上がり下がりする。
勾配に弱い蒸気機関車時代の名残りだ。
また、日本曹達二本木工場は現在も稼働している。
今回、二本木駅で駅員の松枝さんと話ができた。
日本曹達の社員は車で通勤していて鉄道を利用してるのは5名程度だという。
また、松枝さんは12月で定年退職するが、今、勤務は12時間だと聞き驚いた。
二本木駅は明治43年(107年前)に建築された。
明かり取り目的の高窓があり、屋根裏は西洋伝来のトラス構造だ。
現在、当時の復元を進めているそうで嬉しい限りだ。
久し振りに中郷小学校の校庭に立ち、転校後54年後の感慨に浸った。
途中、高田駅にも立ち寄り高田公園の東洋一の蓮花群を観賞する。
「蓮まつり」の最中で蓮の優雅さに浸る。
最後に、私が生まれた市振駅を訪ねる。
私の誕生日に書いた父喜作の日記が私の宝物としてある。
「1月22日(金)、天候…晴れ夜雨、温度8度。
休養時ノニ時スギ寝床に入テ間モナク子供ガ静子ノ産気ヲ催シタノデ知ラセニ來タ
三時スギ元気良ク鳴き声ヲ挙タ
五時三十分泊ノ産婆ガ来ル迄赤児ノ取上ガ出来ナカツタ
男ノ子ト判タ時三人ノ子供ト共ニ嬉シカツタ
非番日モ赤児ノ側ニ居テ熟睡モ出来ナイ
夜赤坊ヲ囲ンデ就寝シタガ泣声ヲ聞クト安ト眠レナイ
子供モ頻ニ目ヲ覚マシテイル」
市振駅は新潟県最西端駅で1624年に設けられた幕府代官の市振関所の場所にある。
松尾芭蕉は奥の細道の旅の道中、1689年に市振の桔梗屋に泊まったとき詠んだ句が有名。
「ひとつ家に、遊女も寝たり萩と月」
今の市振駅は無人駅になっていて、なんとも寂しい。
鉄道も昭和62年に国鉄からJR各社に継承されて、平成22年には整備新幹線の並行在来線区間は第三セクターの「えちごトキめき鉄道」に転換され、妙高高原~直江津間の「妙高はねうまライン」、直江津~泊間の「日本海ひすいラインに変わっている。
75年半前の自分の「ふるさと探訪」をして
、今あらためて生かされていることに感謝する。
写真…市振駅近くで(8/10)
土田先生、先日は「二本木駅」の新聞記事をいただきありがとうございました。心のふるさとをいつまでも大切にしたいと思います。