2019/06/05
「人格能力の大切さ」<435>
騒動の発生には、決まって人間の言動が起因する。
その言動が社会と背反するため騒動が生まれる。
良い騒動なら歓迎だが、好ましからざる騒動は社会を不幸にする。
私が思う「あるべき姿」・・・1
「常識の上に教養があり、教養の上に専門的知識がある」。
北方領土は戦争で取り返すべきだと言った国会議員、常識はずれな発言なのに本人は可笑しいと思っていないらしい。
国会議員は、国民から支持された組織人格だ。
警察官は、入社した日から警察官という公務員。
これを制服論と言うらしい。
昨日まで学生でも警察官に採用されて制服を着たとたん、周りは警察官として接することになる。
。
本人の自然人格とは別である。
常識があっても、教養が無いと人間の幅が希薄。
教養があり専門的知識があると社会では重宝される。
しかし専門知識があっても教養がないと深みが無い。
また、教養があっても常識が無いと可笑しな理屈っぽい人間になる。
責任の重い公務員であれば始末に負えないし、高級官僚でも覚醒剤や麻薬所持の違反まで犯す。
自然人格は環境の中で適応して成長し指導的な人間になっていくが、それも止まった現時点の評価でなく、プロセスの中で評価されるべきと思うのである。
自己中心者→自立準備者→自立者→指導者→開拓者→感化者
と人間は成長する。
自分は優秀などと思い上がる寂しい自己顕示欲人間になりたくないものだ。
私が思う「あるべき姿」・・・2
「人格能力・職務能力・資格能力は別である」。
私が肝に銘じている考え方であり、これまで経験した実感からもうなずける。
国家資格や高学歴など、専門的資格や経歴があるからと言って人格者であるはずも無く、良く仕事が出来るからと言って人格者でもなく、人格者だからと言って、必ずしも資格や職務能力がある訳でもない。
資格があるから良い人間であるはずも無く、資格の業界では、常に懲戒処分者が出ているのが実態である。
資格者や職務能力の高い人は孤高である。
孤独な故に、人間力が伴わないと他人に対して批判的になったり排他的になる。
では、どう捉えたら良いのか。
私は、職務や資格が関わるプロセスの中で自己の人格能力を錬磨することこそ最も大切だと考える。
むすびに。
平成11年まで箱根山中で開催されていた行徳哲男先生の4泊5日「BE研修」という、理性の殻を破り実相に気付く感性研修プログラムを受けたことがある。
そこで感銘を受けた言葉が今でも私の中に生きづいている。
「本当の勇気とは優しさである」。
写真・・・ハマナス(5/14、鞍月セントラルパーク)
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