2021/04/15
「藤江の地名」<502>
私は2001年(平成13年)9月より金沢市藤江北に住んでから20年近くなる。
その藤江の生い立ちを藤江健寿会発行の冊子「藤江の歴史を歩く」で知る。
藤江は大徳地域の中で多くの歴史的財産が残る地域だ。
藤江に人が住み始めたのは古墳時代(西暦400年)から奈良時代(700年初期)であることは発掘調査で判明されている。
古代、現在の河北潟が松任の相川まで続いていたものが河川の度重なる氾濫で土砂が堆積して現在の地形になった。
河川の上に出来ている藤江は、度重なる河川の氾濫によってヘドロが堆積して出来た「沖積層」の軟弱な地盤で出来ている。
藤江の人口が資料明示されているのは1670年(寛文10年)の百姓11軒22名と記録されている。
(2021年3月現在、金沢市209千世帯450千人、藤江南637世帯1,232人、藤江北711世帯1,503人)
藤江は古代の「河川と水」を起源に農業を営みながら現在の姿になった。
藤江の地名は、藤江の髙鞆神社を創建した藤井氏の苗字「藤」と、江は河川と水の土地柄の「江」を取って藤江と推測できる。
藤井氏は富樫系列の野々市「林氏」の家臣である。
藤江には専光寺を本寺とする常光寺(1947年寺号)、また700年代~900年代に創建されたと言われる「髙鞆社」は101年前の1920年に74軒の寄進により本殿が建立され「髙鞆神社(たかともじんじゃ)」となった。
三代前田利常の1634年(寛永11年)、金沢城「玉泉院丸」の築山に使用するため、庭師左衛門が能登の巨岩を亀に加工し富来から金石まで運ぶ途中、亀の首が落ちてしまった。
そのため使えなくなり、近くの髙鞆神社に鎮座して292年経っている。
また、六代刀工の加州清光は藤江南に在住し、1864年7月8日の新撰組が起こした池田屋事件で沖田総司が使用した名刀を製作したと言われている。(現在は存在しない)
1300年後の2003年に石川県庁が藤江のすぐ傍に移転してきたことを昔の人が知ったら驚愕することでしょう。
写真・・・「50年前の藤江」と「藤江の生い立ち」
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